なお、一部は書面で寄せられたご意見を理事会の責任において、JSE-RENAMEに転載したものであることをお断りしておきます。
また、一部のご意見については、早くにいただきながら9月末の時点まで開封できなかった事情があります点についてもご了解いただきたく存じます。
[JSE-RENAME:0001] テストメールにつき不掲載
[JSE-RENAME:0002]
[JSE-RENAME:0003]
[JSE-RENAME:0004]
[JSE-RENAME:0005]
[JSE-RENAME:0006]
[JSE-RENAME:0007]
[JSE-RENAME:0008] 私的文書により不掲載
[JSE-RENAME:0009] [JSE-RENAME:0010] [JSE-RENAME:0011]
[JSE-RENAME:0012] [JSE-RENAME:0013] [JSE-RENAME:0014]
[JSE-RENAME:0015] [JSE-RENAME:0016] [JSE-RENAME:0017]
[JSE-RENAME:0018] [JSE-RENAME:0019] [JSE-RENAME:0020]
[JSE-RENAME:0021] [JSE-RENAME:0022] [JSE-RENAME:0023]
[JSE-RENAME:0024] [JSE-RENAME:0025] [JSE-RENAME:0026]
[JSE-RENAME:0027] コマンドメールの誤配信により不掲載
[JSE-RENAME:0028] [JSE-RENAME:0029] [JSE-RENAME:0030]
[JSE-RENAME:0031] [JSE-RENAME:0032] [JSE-RENAME:0033]
[JSE-RENAME:0034] [JSE-RENAME:0035]
[JSE-RENAME:0036] 非公開希望により不掲載
[JSE-RENAME:0037] [JSE-RENAME:0038] [JSE-RENAME:0039]
[JSE-RENAME:0040] [JSE-RENAME:0041]
掲載にあたっては、メール署名など個人情報を含む部分は削除されています。
こんにちは、赤堀です。
会長よりの投稿ですが、本文中に言及のある読売新聞の記事を末尾に全文引用
するため、庶務担当理事が代理で発信しております。
日本民族学会会長 大塚和夫
本学会の「改称問題」について、読売新聞・大阪版が記事を掲載してくれま
した(11月15日夕刊)。民博の石毛館長と私の談話(私の場合は電話取材)
も載っております。このような形で「改称問題」が広く一般に知られることは、
わが学会にとって好ましいことであり、歓迎したいことではあります。記事そ
のものは記者の方がご自分の責任で書かれたものであり、そこに何らかの個人
的判断が入っていてもそのこと自体にわれわれはとやかく言うことはないと思
います。だが、新聞記事という制約上、客観的事実の紹介に関し、一部で誤解
を招きかねない表現もありました。その点をお伝えしたいと思います。
ひとつは、「同学会理事会は・・・学会名称の変更に着手することの是非を
問う会員投票を実施」という文章です。正確には、「学会がその名称の変更に
向け準備すること」が承認されたのであって、記事にあるように「学会名称の
変更に着手すること」が承認されたわけではございません。微妙な点ですが、
この点こそ理事会が提案し、本年度の総会で承認していただいた手続きの根本
的なところです。今回の投票で承認されたことは、あくまで「名称の変更に向
けての準備」、すなわち新名称「案」の作成作業を行うことであり、これで改
称が決まったわけではありません。改称がなるか否かは、あくまで来年度の総
会での決定によります(この点は、記事のほうでも明記してくださっています)。
一部の会員の方にも「すでに改称が決まった」という誤解があるようですが、
そうではありません。来年度の評議員会や総会で理事会から提出される具体的
な改称案が否決されたり、また理事会案に代わる改称案(動議などで提出され
る可能性があります)が可決されなかったりした場合には、本学会の名称は
「日本民族学会」のままです。その点を確認しておきたいと思います。
もう一点は、「『日本文化人類学会』といった和文と英文の具体的名称」と
いったくだりです。新名称の候補として「日本文化人類学会」がありうること
は確かです。すでにJSE−RENAMEでも、この名称に関して議論がされ
ております。しかしながら、理事会として評議員会および総会に提出する案が
「日本文化人類学会」として決まったというわけではありません。それ以外の
名称も含め、今後検討していこうというところです。この点もご確認ください。
これまでのところ、JSE−RENAMEなどに寄せられた会員からのご意
見はあまり多いとはいえません。改称になるか否か、さらに改称するとすれば
どのような名称になるのか、これらの最も重要な点がこれから煮詰められよう
としております。理事会だけで検討するにはあまりにも大きな問題ばかりです。
改称に関する賛否、さらにもし改称するとすればどのような名称がよいか、そ
して学会誌名は・・・。これら今後の日本民族学会の活動を左右する重大な案
件に関して、会員の皆様から多くのご意見が寄せられることを期待しておりま
す。なにとぞよろしくご協力ください。
以下、『夕刊讀賣新聞』2002年11月15日4版・大阪版12頁「文化」欄より引
用。
ウェブ上での引用権利がないため不掲載
-------------------------------------------
赤堀雅幸(上智大学アジア文化研究所助教授)
m-akahor@sophia.ac.jp
改称には基本的に賛成します。なお先に名称変更問題が議論されたさいにも指摘されたことですが、おもに自然人類学関係の学会として人類学会があり、今回文化人類学会となったとき、あたかも文化人類学会はその一分野を担うものといった印象をあたえかねません。そのため日本人類学協会といった上位組織を立ちあげ両者をその中に含めたものにするといった案がでたのを記憶しています。勿論そうなればよいのですが現在その可能性は見えていません。
その可能性が見えるまで名称変更をまてというつもりはまったくありません。ただヒトとしての人間理解そして人類としての普遍的側面への探究の姿勢を見失うことは避けたく、せめて学会の目的を記した部分3条「この会は人類の文化を研究する民族学、文化人類学、社会人類学などの発展と普及を計り、かつそれを通じて人類についての学的理解を深めることを目的とする」とでもいった下線部分を付加することが望ましいと思います。
<back to top前回の改称問題の時には理事会で強く反対しました。その時理事会では反対派は少数派だったように記憶しています。今回賛成するのは変節行為のように思われますが、これも時の流れのように思います。
「改称に向けた手続き」は適当に考えます。
<back to top結論から言って、「日本民族学会」とその機関誌『民族学研究』の名称を変えるこ
とに反対です。
(日本)文化人類学会(および「文化人類学」の名をもつ)機関誌のもとに参集し
たい研究者は、あらたに学会を創出すべきです。
60年の歴史をもつ現行の学会とその機関誌を、総会において解散・廃刊決議する
ことなく、
ある時点から別名称とすることが、簡単にできるとは思えません。これは歴史的事実
を変えることができないことを論理的に言っているのであり、「ノスタルジア」など
とは無関係の問題です。
なお、新学会は、従来の学会名をみずからの意思によって継承しない以上、例えば
その継承を図る学会員がいた場合、「日本民族学会」とその機関誌『民族学研究』は
継承することができますし、またさらに、新学会は「従来の学会が従来の学会名の名
称を使用すること」などについてクレイムをつける事はできない、と理解していま
す。
二つの学会が並び立った時にはじめて、各人はどちらに属するか、あるいはどちら
もやめるか、どちらにも加入するかを考えることでしょう。
----- Original Message -----
From: AKAHORI Masayuki
To: JSE-RENAME <jse-rename@t3.rim.or.jp
Sent: Saturday, October 26, 2002 12:40 AM
Subject: [JSE-RENAME:0033] 文書で寄せられた意見 22
日本民族学会会員 各位
庶務担当理事 赤堀雅幸
文書にて下記のご意見をいただいておりますので転載いたします。なお、ご意
見はかなり以前に寄せられておりますが、学会改称に関する投票用紙に同封さ
れておりましたため、開票日の28日をもって開封させていただきました。
日付:2002年8月15日(郵便)
氏名:中牧 弘充 (所属:国立民族学博物館)
民族学名称問題
名称変更のかつての議論をもう一度蒸し返すのではなく、あたらしい展望が必
要ではないか。そのためには民族学でも文化人類学でもない第3の名称を採用
することが一つの選択肢としてかんがえられる。その場合、学問のディシプリ
ンではなく、問題領域に思い切ってシフトするのが一案である。「文化と人類」
学会ないし「民族と文化」学会というのはいかがであろう。
ただし、問題はディシプリンのアイデンティティーが多少とも損なわれること
である。また学問体系としての民族学や文化人類学が組織的な発言力を減じる
可能性も高い。そうしたリスクを負ってもなお採用する価値があるかどうか、
検討を必要するであろう。少なくとも、開かれた学会にはなるとおもうが、既
成のアカデミズム体制のなかでは居心地が悪くなる懸念はぬぐいきれない。
ちなみに、こうしたこころみはすでに「社会と宗教」学会でなされている。こ
の学会は1993年に設立され、宗教と社会に関心のある研究者が宗教社会学に限
らず、宗教学、社会学、人類学、民俗学、歴史学などからあつまり、現在500
名の会員を数えている。ただし、宗教学会や社会学会のような、既存のアカデ
ミズム体制での活動をまったく志向していない。
-------------------------------------------
赤堀雅幸(上智大学アジア文化研究所助教授)
m-akahor@sophia.ac.jp
日本民族学会会員 各位
庶務担当理事 赤堀雅幸
文書で寄せられたご意見について、庶務担当理事の方から連番を振ってきましたが、JSE-RENAME: 29とJSE-RENAME: 30に同一番号を振ってしまいました。申し訳ありません。
JSE-RENAME: 30の題名を「文書で寄せられた意見20」に改めてお読みください。
また、これにともないJSE-RENAME: 31は「文書で寄せられた意見21」となり、JSE-RENAME: 32は「文書で寄せられた意見22」、JSE-RENAME: 33は「文書で寄せられた意見23」になります。
混乱を招くようなことになり、まことに申し訳ありません。
<back to top民族学名称問題
名称変更のかつての議論をもう一度蒸し返すのではなく、あたらしい展望が必要ではないか。そのためには民族学でも文化人類学でもない第3の名称を採用することが一つの選択肢としてかんがえられる。その場合、学問のディシプリンではなく、問題領域に思い切ってシフトするのが一案である。「文化と人類」学会ないし「民族と文化」学会というのはいかがであろう。
ただし、問題はディシプリンのアイデンティティーが多少とも損なわれることである。また学問体系としての民族学や文化人類学が組織的な発言力を減じる可能性も高い。そうしたリスクを負ってもなお採用する価値があるかどうか、検討を必要するであろう。少なくとも、開かれた学会にはなるとおもうが、既成のアカデミズム体制のなかでは居心地が悪くなる懸念はぬぐいきれない。
ちなみに、こうしたこころみはすでに「社会と宗教」学会でなされている。この学会は1993年に設立され、宗教と社会に関心のある研究者が宗教社会学に限らず、宗教学、社会学、人類学、民俗学、歴史学などからあつまり、現在500名の会員を数えている。ただし、宗教学会や社会学会のような、既存のアカデミズム体制での活動をまったく志向していない。
<back to top私は長い間、日本民族学会の地方の会員として、『民族学研究』も読んでいます。しかし、最近思いますことは、掲載論文も、ほとんど歴史性のない、社会人類学的、または文化人類学的なものが多いようです。最近の『民族学研究』はむしろ、社会人類学の研究雑誌のようです。昭和40年代頃までの『民族学研究』は楽しいものでした。最近のテーマの論文であればむしろ、社会人類学会の研究雑誌とした方が適切のようです。学会と、余り範囲が広くなり過ぎますと焦点がぼけてきます。
・このたびの学会名の問題にしましても、私は「日本民族学会」の方が賛成ですが、学会のすう勢から、どうしても、「文化人類学」の名称か宜しければ研究雑誌の編纂の前提条件として『民族学研究』の雑誌の中に歴史性のある論文を一つか二つ掲載して頂ければ『文化人類学』の名称に賛成してもよいと思います。
・今のままで「文化人類学」に移行するのであれば、小グループでも宜しいので、別に「日本民族学」を組織され、われわれは、その方に入会したいと思います
<back to top学会名称はノスタルジーではなく現実に合わせて変更すべきだと思います。その方が若い研究者さんの活動の場を広げることになるでしょう。
<back to top私は「日本民族学会」を「日本文化人類学会」に改称することには反対です。改称問題が生じたとき賛成・反対の討論が行われ、条理を盡した末に「留保」となりました。それだけこの問題は単に名称を変えるという以上の理論的な問題を含んでいたことを証明します。このたび改称問題が再浮上した理由として「学会を取り巻く状況の変化」が挙げられていますが、それは、前に論議された理論上の問題を解決したことにはなりません。私は根本的には民族学は認識の対象を「民族」エトノスにしぼり得るのに対し、文化人類学のそれは「人類」アントロポスであり、前者の対象は具体的であるが、後者の対象は抽象的であるほかはないといわねばなりません。すでに遥か昔に民族学会で石田英一郎先生が「総合人類学」を提唱したとき、激論があり、否定的な評価が下されたことを記憶しております。今回そのとき以上の論点が討論され、それをこえた解決がなされたとは思えません。しかし、どうしても文化人類学が自らの立場を解明したいのであれば、私はすべからく新学会を擁立し、同好の士を広く求めることが一番だと思います。その旗の下に人が集まるときにのみ文化人類学は活性力を持ちうるのではないでしょうか。民族学会も嘗てはそうでした。学会の結成はつねにそうあるべきだと思います。
<back to top現在ほど、民族学が人類史の中で浮きぼりされた時代はないのではと考えます。
1933年に日本が国際連盟からだっ退した時加盟国は42ヶ国、現在の国連加盟国は198ヶ国と聞きます。現在は国家時代です。ソ連の様に国家の求心力を失なった時、民族集団が地方勢力となって行きました。民族の団結をうながすものはなにか? 現在の大問題です。部族研究を中心とした人類学は今の世に適応できないのではと考えます。民族(近頃は部族も入いるようですが)のアイデンティティにまじめに取り組時ではないかと思います。集団をわくわくさせるものはなにか。温帯以外の国家、民族群に尋ねたい質問です。
2003年第3回目のTICADが東京で開催されます。アフリカ諸国に取って国家とは何か、ナショナリズムをどの様に考えているのかODAを利用するアフリカ諸国はこの質問に回答する義務があるのではないかと思います。経済協力だけではなく、民族学会として問いただして行くべきだと思います。民族学の名称の変更には賛成出来ません。
<back to top本来「人類学」という大領域の中に、自然人類学、文化人類学、社会人類学といった分野が設定されるべきであります。しかし、自然科学と人文・社会科学を峻別したがる日本の現状では、双方にまたがる学会の創出は難しいかもしれません。
文化人類学という名称が学史上、民族学より特に勝っているとはおもわれませんが、常々不便に感じるのは、発音上、民族学と民俗学が同じであることです。そのために間違いも往々に生じ、話の中でいちいち説明が必要になります。その点についてだけは、文化人類学の名称を使用するメリットが大きいと思われます。
<back to top称変更はしないほうがいいとおもってきましたが、やむをえないかという気になりました。その場合、「日本文化人類学会」というよび名には違和感があります。「日本文化」とつなげて、誤って読まれそうというだけでなく、文化人類学のような研究を「日本」という国民国家の枠のなかに納めるということにも。いろいろな案をつのった上で、きめていただきたいとおもいます。
<back to top少数民族を研究する自分としては、文化人類学専攻出身ではありませんので、ディシィプリンを限定する誤解、あるいは可能性を有する名称への変更はいかがなものか、と考えております。
<back to top入会して日が浅いことと、専門家ではないことから、特に強い改革の意思はございません。人類が文化を共有してから今日まで、時間(歳月)の流れの中で、変化に敏感に対応し様々な環境の変化に耐え生きることの知恵を、生み出してきたことを考えますと、学問研究の分野においても例外とは思いません。学問をリードなさる諸先生を中心に、オープンな議論、研討をできるだけ推進なされますことを、望みます。
<back to top会員の方々の総意をもってなされることを期待します。
<back to top学会の名称変更については反対します。文化人類学という名称はアメリカ的な印象を持っています。昨今の日本人は、何でもアメリカの真似をすればよいと考えている印象が小生には強いです。まるで親分のいうことをきく乾分の感じのようです。確かに一般的にはアメリカ的に"文化人類学"というよび方が多くなっています。私も大学に居た頃、研究部門の名称に"文化人類学"という名称をつけることに賛成しました。しかし学会名としては60年以の歴史を持ち(小生が入会の際は日本民族学協会)、輝かしい伝統を有している上にドイツでは現在でも"民族学"とよんでいるのですから、今更アメリカに倣う必要はないと考えます。また、国立民族学博物館などとの関係はどうなるのでしょうか。小生としては"民族学会"に深い愛着を覚え、仲々簡単には棄て切れません。もし、学会名を改称するならば、寂しくもあり、残念至極でもありますが、退会させて頂きます。物わかりの悪い、世の流れを知らぬヂヂイとお嗤い下さい。
<back to top「民族学」の過去の経緯は一応理解できるが、現在・将来にわたる必然性には疑問。「文化人類学」で良いと思う。
<back to top 以前に学会で行われたアンケートでお答えしたことに変りありません。三つ加えさせていただきます。
1)周知のように数年前に英、独、仏その他ヨーロッパ全体の文化人類学ないし社会人類学の分野の会員によって"The European Association of Social Anthropologists"が形成され、1993年からThe Journal of the European Association of Social Anthropologistsという雑誌が刊行されています。この学会名称を見ても、民族学という名称が使われていないことに注目すべきです。
2)これも以前から会員はすくなからず、大学の研究室は文化人類学或いは社会人類学の名称を使っているのに、学会が違う名称であることは、専門外の人々に誤解を与ええるという意見がされており、私もこの通りだと思います。
3)アメリカに確かにAmerican Ethnologistという雑誌が刊行されていますがこれは「アメリカ人類学会」(American Anthropological Association)――学会雑誌American Anthropologist――の刊行している諸雑誌の一つとして、サブとして出ているものであります。要するに学会名の変更(文化人類学か社会人類学)は遅過ぎますが今からでも変えるべきと思います。
蛇足ですが日本民族学会はウィーンで学ばれた(当時シュミットの民族学が支配的であった)二人の民族学者を中心に作られたものであり、とくに戦後欧米でこの学問の内容が大きく変わってきており、アメリカだけでなくヨーロッパでも同じであることは、前ページの1)で述べた通りです。民俗学との同音である不便さも避けられます。
なじんできた「日本民族学会」の名称に親しみを覚えますが、時代背景の変遷の中で「文化人類学会」に改称も、やむをえないだろうと考えております。
<back to top人類学会の課題の一つとして、現代的事象をその理論的枠組みを援用に解明す,ることがあると思います。この領域には隣接学問分野である地理学、社会学な,ども果敢にとりくんでおります。高校レベルの地理の教科書を見ますと、いか,に地理学が、この「相互乗り入れ領域」で、人類学の成果を、うまく採り入れ,ているかがよくわかります。一方、人類学の方はといえば「人類学らしい研究」,や「学問的アイデンティティ」をたいへん狭く限定しがちであり、そのために、,かえって人類学の対象領域を年々狭めてきた、という餡があります。このまま,では、人類学に対する社会的需要や認知はきわめて低下し、人類学の枠組から,人類社会、文化を解明する、というアプローチをとる研究者は存在しなくなる,ことでしょう。それは、社会科学全般にとっても大きな損失だと思います。学,会名称の問題は単に「ことば」の問題であるともいえますが、人類学に対する,社会的認知の低下をくい止める一つの手段として有効であると思います。
・改称には賛成いたします。実態を反映した名称を名のるのが自然だからです。
・しかし郵送されてきた文については、クレームがあります。
2/3ページの5)です。(お手元でご確認下さい)。二つのオーバーラップする学会ができた場合に、両者が利害対立するとのこと〜ずい分と日本人の行動パターンについて、想像力に欠けた方が書いたようです。私が想像するところを申しあげましょう。それが実現した場合は、「新しい学会の経い」の物語が、好んであちこちで語られつづける〜ただそれだけのことです。当面は、両方の学会に入る若手がたくさん出る筈です。(なぜなら、今の年に一回の発表では、潜在的な発表ニーズを満たしていない。)「学会の利害が対立する」というご想像は、こっけいです。大切なことは、学会のレベルと活気を維持することです。そうすれば、民族学会の側を笑う人などでません。他者からどう思われるかを、自己の行動のものさしとするのが日本人の行動特性であることを、自己分析なさってはいかがですか?
他者からみて正当思われないから、名をかえる〜というのは二の次にして下さい。さて具体例をあげましょう。比較教育の分野では比較教育学会と国際教育学会がありますが、多くの会員が重複してますが対立はありません。人文地理学会と日本地理学会は、対立するどころか、研究の多様性を補償するシステムとなっています。従がって5)でいう新学会の誕生を仮定して行動(アクション)を促すのは、ドウカツであるといい切らせてもらいます。もっと自分の考えに自信をもって他者を説得してもらいたい。
文化人類学会でよい。
以前から、学会の名称はよほどのことがないかぎり変更しないほうがいいと考えてきましたが、「民族」というとすぐ「問題」とむすびつけられる観念連合ができあがり、「民族」概念の排他的で否定的な一面ばかりが浮き彫りにされる今日の状況では、改称もやむをえないかと思うようになりました。
しかし、ただちに「日本文化人類学会」という案にしぼってしまうのには疑問があります。「日本文化」と読まれたら意味不明になるという点もさることながら、その「日本」というのが「日本人の」という意味なのか、「日本語をつかう」という意味なのか、ともかくよく分かりません。前者であれば、外国籍の人は本来は入会できないのか、後者であれば国際的流通をはじめから放棄していることにならないのか。「日本〜学会」と称する学会はたくさんありますが、文化人類学会(民族学)の研究者の「自由参加」の集団に、名称のうえからにしろ国民国家の枠付けをするのはどうかと思います。といっても自分にいい案があるわけではありません。ただ、いろいろな名称をつのって、考えていくべきだと思います。
こんにちは、赤堀です。
Hiroki Takakura wrote in the mail "[JSE-RENAME:0006] RE:JSE-RENAME 開
設以前に寄せられた意見1":
それと、赤堀庶務理事へのお願いですが、学会ホームページの「学会名称の変更
について」の頁に先の金沢大会で理事会(評議会?)から提示された提案文を掲
載されることを希望します。
会長からの投票呼びかけの文書等も含めて掲載いたしました。遅ればせながら
お知らせいたします。
日本民族学会が創設された頃はまだドイツ、オーストリアの民族学がさかんであったし、その前に、民族学協会の設立はオーストリアで学んだ先生たちが中心になって作られたことは周知のことである。その後とくに戦後は文化史学派や文化圏説は衰退し、アングロ・アメリカの社会人類学、文化人類学が発達し、日本でもその影響を受けて来た。民族学は文化人類学の一部に包摂されるようになった。日本の諸大学でも「文化・社会人類学」講義や学科が設立され、研究室は社会人類学、文化人類学なのに学会は民族学というちぐはぐな現象をおこしてきている。斯学の発達に伴って名称を変更することは遅きに失している。
なお、イギリスのOxfordについて言えば、Social Anthropology が教えられるようになったのは1905年、A.R.MarettがSocial Anthropologyの Readerになったのは1910年、それ以前からE. B. Tyler がanthropologyについて講義をしている。Dept. of Social Anthropology ができたのは1914年。
フランスのコレージュ・ド・フランスにレヴィ=ストロースが迎えられたのは1958年で、講座名は社会人類学(Laboratoire d'Anthropologie Sociale)である。周知のように、アメリカ人類学は形質人類学と文化人類学に分かれ、文化人類学の中に民族学は含まれ、American Ethnologist という雑誌が出ているが、これはアメリカ人類学会 sub-branch(言語人類学会、心理人類学会などがある)の一つである民族学会の機関誌であるに過ぎない。(青木保氏の会長の時の総会で、私は当時の理事会の変更案に賛成の意を話した時、ある会員からAmerican Ethnologistをアメリカ人類学会全体の雑誌であるかのように誤解した発言がありましたので重ねてこの点を述べます)。
前回の改称が討議された時は理事会で強く反対しました。当時の理事会での反対者は、少数派だったように記憶しています。その当時は草創期からの会員の中に根強い感情的な反発があったことをよく知っていましたので、そこまで感情的対立を深めて改称する必要はないと思っていました。今回賛成するのは変節のようですが、これも時の流れだと思います。
<back to top 歴史ある日本民族学会を正当に・・・・・トータルに継承したことを内外に明示するために、・・・例えば「日本Ethno・文化人類学会」みたいに、伝統的な輝かしい学会名称の儚でも/片鱗でも新学会名のなかに組み込んでおいた方が得策ではないかと愚存してます。
金沢大学(2002年6月)での二日目総会、急用あって出席できませんでした。若し、拙意見と相似したどなたかの先行御発言がありせば、当然(出席していたならば)私は諸手をあげて賛成しています。
「日本文化人類学会」の8文字だけだと、何となく、これ迄の学会の伝統・特徴とうを・・・・・トータルに表現できてないような心配が消えないからです…。杞憂かも不知んが。
送信入会させていただいたばかりで日も浅く過去の長い伝統等の理解も乏しく、明確なご意見申し上げることは無理の状態です。しかし、本会の存亡に関する大きな問題と認識しており、出来る限り多くの会員の皆さんによるオープンでフラットな検討、話し合いの場(機会)を持つことを望みます。時間と手間の掛かることは大変なことと存じますが次のステップに影響するものと考える者です。
<back to top日本民族学会名の歴史的継続性に愛着をもつが、参加者の多数が改称を望むのなら反対しない。
<back to topこんにちは、赤堀です。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
Hiroki Takakura wrote in the mail "[JSE-RENAME:0006] RE:JSE-RENAME開設
以前に寄せられた意見1":
>上記の提案に賛成します。また後者つまり英文名称についてですが、金沢での学
>会での提案は、日本を[JAPANESE]としていたと思います。英文名称に日本をつけ
>る場合、[JAPAN]でいいと思います。[JAPAN]のほうが、単なる[日本人」でなく、
>[日本語使用者」「日本におかれた(学会)」といったニュアンスを伝えられる
>と考えるからです。
皆様ご存じの通り、現在の学会名はJapanese Society of Ethnologyです。参
考までに「日本人類学会」はAnthropological Society of Nipponを英文名と
しています。金沢の大会では口頭で"Japanese Society of Anghropology"のよ
うな名称に会長か理事が言及したかもしれません(すいません、よくおぼえて
いません)が、正規にはまだ特定の名称を理事会は考えていません。これは日
本語名についても同様です。
>
>それと、赤堀庶務理事へのお願いですが、学会ホームページの「学会名称の変更
>について」の頁に先の金沢大会で理事会(評議会?)から提示された提案文を掲
>載されることを希望します。
これも考慮しましたが、学会内文書ですので、非会員もたやすく見ることので
きるHP上に公開してよいか議論の余地があると思い、現段階では掲載しており
ません。再度、早急に検討してお返事します。(でも、8月だからいつもより
時間がかかるでしょう。その点はご容赦ください。)
高倉@東北大です。皆様こんにちは。JSE-RENAMEのML開催おめでとうございます。
ところで、
日付:2002年7月11日(受取り日:7月11日、Eメール)
氏名:中島 智(所属:武蔵野美術大学)
新名称として『文化人類学会』を提案いたします。
逆に「文化人類学」という日本語を英訳等する際には「日本」を付けるほうが
分かり易いという感覚で修飾すればよいと思われます。
上記の提案に賛成します。また後者つまり英文名称についてですが、金沢での学
会での提案は、日本を[JAPANESE]としていたと思います。英文名称に日本をつけ
る場合、[JAPAN]でいいと思います。[JAPAN]のほうが、単なる[日本人」でなく、
[日本語使用者」「日本におかれた(学会)」といったニュアンスを伝えられる
と考えるからです。
それと、赤堀庶務理事へのお願いですが、学会ホームページの「学会名称の変更
について」の頁に先の金沢大会で理事会(評議会?)から提示された提案文を掲
載されることを希望します。
このことにつき7月9日付、日本民族学会第20期会長大塚和夫氏名を以て御案内を頂きました。新たな文部行政の動向、世界的学問領域の趨勢に鑑み、学会名再検討の機運が熟してきた 由伺い、まことに喜ばしく存じます。
人類の生活領域の拡大と知識技術の進歩にともない、当初発見した事象に基づく学問が、より普遍性を持った視点から統合され、再編成されるのは当然の成り行きです。
前回、1994年10月、千葉大学における第49回日本人類学会・日本民族学会連合大会は、『フォーラム:学会名称変更提案関連資料 ?』(民族学研究 第60巻別冊、1995年9月刊)を踏まえたものでありました。出席者が全編(54頁)を熟読しておられたなら、「民族学」に固執すべき責任ある論議は殆どなく、「文化人類学」が大多数を占めていたことによりましても、改称案採択が当然のことと考えておりました。ところが、十分な論議を尽くさぬまま、否決されたことは誠に残念でありました。
当日手を挙げた人の言葉からは、ほとんど資料内容が感じられませんでした。もしも、拙論(§18 民族学から人間の学としての文化人類学へ)と清水昭俊氏の提言(§29 中村氏への要望)だけでも一読しておられたなら、問題はすべて解消済みの筈でした。
フォーラムにおける反対論の中心は、旧名には60年の歴史があり、愛着を断ち切れないとするものでした。そのお気持ちはよく理解できます。しかし、感情論ばかりでなく、今読み直してみると、拙論の「文化人類学」肯定論にも、問題のあることに気付きました。「文化人類学」という学名は、未開民族の文化研究を中心とする民族学を解消させるばかりか、現代文明社会における旧文化研究の民俗学まで融合させる性格を持っています。この場合、文化ということが研究の主体ですから(「文化」という言葉は、他の生物にとっては当然差別用語になります!)、今日の西洋文明様式の文化か、前時代の文化かはあまり問題でなくなります。
文化人類学という用語の提唱は、文明様式の差によって、人間そのものに対する学問的差別感を解消しようとするのが狙いでしたから、それはむしろ望ましいことでもあります。しかしこの論法で行くと、土器や石器の調査研究を得意とする学者まで、考古学というな。作った人間の文化が問題なら文化人類学だと、押しつけがましい議論にもなりそうです。
「文化」という概念は、人間の有形無形の手が入っているか否かにより「自然」と分ける大概念ですから、ここには政治・経済・法律・芸術・文学等々、何でも入ってしまいます。当然のこと、現代文明であろうが、前近代文明の文化であろうが、皆研究対象になります。どのように細分化した学問分野の研究法も、研究成果も文化人類学の中に入ることになります。しかし、誤解を招きやすいのは、客観的な学問分類論と、研究者の好みと主体性による、いわば主観的な主科学と補助学関係の混同であります。政治学や法律学を止めて文化人類学とか文化学と呼べという問題ではないのです。すると、これは堂々巡りになりますが、民俗学・民族学のままでいいではないか、という議論も出かねません。
わが国の数学(mathematics)は、中国の『数学啓蒙』(1853年刊)に習い、明治10年代まで、算術(arithmetic)と呼ばれましたが、後、算術は初等数学の名となり、教科名となりました。1941年からは、これが算数という呼び名に変わっております。小学校で算術を習った世代の人びとにとって、「算数」という言い方には抵抗があます。しかし、いまさら算術・算数の教科内容の違いを比較検討しているより、日本の「数学」教育の発展を考えた方が時宜に叶った措置と言えないでしょうか。
それにしても、人類学の下部(包括)概念として、自然(形質)人類学と文化人類学を並べて立てようとするとき、日本人類学会の会員からは、自分たちはあくまでも上位学会であり、新参の文化人類学と並べられるのは嫌だと云われる可能性があります。これは民俗学が新しい歴史学だと柳田国男が主張した時、お弟子さんの歴史学者の中からさえ、「むかし」とはなに時代の、どこの村のことだと反論が出て、散々論議が交わされたことを記憶します。あれは所詮歴史観の違いであったと理解するなら、こちらは人間観・文化観・世界観の違いと申せましょうか。学問の分類概念に、いわれのない価値判断が入ってよいわけがありません。もしそういうことになれば、人類学と文化人類学の学問的分類論は、中世協働体的社会における、本分家関係を論ずる議論に変わります。それではあまりにも日本的な、非合理的議論に深入りすることになりましょう。
カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)の間では、今なお宗教論争が続いておりますが、これは時間的経過(新旧)による真偽問答ではなく、実質的・論理的論争であると知るべきです。若い研究者には、必ず理解できるはずです。
以上の考察により、拙論の「文化人類学」賛成論にも、なお問題は残ろうかと存じますが、今の機運に乗じて、新しい学問的転換を図ろうというのが、再三の学会称「文化人類学」に賛成の理由です。
私自身小学校で習ったのは算術ですし、大学の講義では文化人類学と民俗学を担当して参りましたが、専門領域として、先史考古学があり、(先史)民族学があることに、少しも異論はありません。ただし、ヨーロッパにおける民族学と民俗学の学問観には、明らかに歴史的な人間差別感が入っていることを承知して置かなければなりません。大きな視点から、人間とその文化作品に光を当てようとするのであれば、文化人類学者と称するのもよし、ある特殊地域の未開民族文化の調査研究に興味があるのなら、民族学者と名乗るのも、一向に差し支えのないことです。また科学研究費等の出願枠組みの問題であれば、以上の学問観を確立した上で、どこに入っていようと、大勢に影響ないことと考えます。
本問題に関する歴代会長、理事、事務局員 各位の絶大なご尽力に衷心感謝と敬意を捧げ、改称に賛同いたします。
なお望むらくは「日本文化人類学会」とされたいと存じます。
文化人類学という講座は大正7年に私立大学である早稲田大学文学部により、西村真次により開講され、大正13年に「文化人類学」早大出版部より刊行されました。これは日本の人類学の発達史においては著名なことです。 このように文化人類学の学史上の意義を十分に理解して文化人類学の研究の展開を期待しています。
<back to top私は現在有力視されている『日本文化人類学会』には疑問です。
新名称として『文化人類学会』を提案いたします。
以前の改称に対する諸意見に目を通しまして、ドイツ語訳からアメリカ語訳への移行という論点に興味を持ちました。確かに見逃してはならない問題だと思われます。然れば「文化人類学」は訳語ではあってもあくまでも日本語です。
私の専門とする「美術」もドイツ語訳、厳密に言えばドイツ語に対応して明治初期に仮設された造語です。ところが訳語というものはどうも原語に対する帰属意識を伴うことが多々生じるようでありまして、これは長い間ヨーロッパ及びアメリカに対する無意味な負い目を生じさせてきたという事実に反映されております。民族学・文化人類学はことにこの点に意識的であらねばなりません。
日本で学問され、日本語で命名される学名というものは、それ自体として独自性のあるものであって然るべきであり、そろそろ訳語関係による帰属意識から意識的に出るべきであると考えます。ですから私は『日本文化人類学会』から「日本」の文字は不要であると思われる訳です。
逆に「文化人類学」という日本語を英訳等する際には「日本」を付けるうが分かり易いという感覚で修飾すればよいと思われます。
以上。