会長挨拶

更新:2018年6月22日




2018年6月3日

日本文化人類学会会長(第28期) 清水 展
会長就任にあたって

 こんにちは、清水です。第28期の学会長への就任をお認めくださり、ありがとうございます。

 一昨年に学会賞をいただいた際の受賞講演のとき、率直な気持ちとして「はるばる遠くまで来たものだ」ということをお話ししました。そして今、あらためて、その思いを強くしています。が、同時に、今回は、ちょっと不思議でシュールな思いもしています。

  というのは、昨年の秋にエール大学の政治学者ジェームズ・C.スコットの『実践・日々のアナキズム:世界に抗う土着の秩序の作り方』を翻訳出版しているからです。岩波から出していただきました。 スコットさんの本を翻訳出版した翌年に第28期の学会長に就任し、しかもその最大の職責が学会の法人化を完遂することです。個人的なアナーキズムへの共感と、学会長としての法人化の推進という職責の自覚という、まったく方向の異なるベクトルが私のなかにあります。私の心のなかで、互いに矛盾しかねないものが内在というか混在しているわけですから、そのことが自分でもうまく説明できない不思議でシュールな気持ちを生み出しているのでしょう。ひょっとして二重人格なのかな、それとも時々の置かれた場に合わせて身を処してゆくという意味で、私はとっても日本的なのかなとも思っています。

 『実践・日々のアナキズム』の原題はTwo Cheers for Anarchismです。手放しで「アナキズムにバンザイ三唱」をすることはできないが、せめて二唱はしたい、という意味です。この本を翻訳した理由は、スコットさんの仕事と調査・研究のスタイルが大好きで、彼から大きな示唆と刺激と影響を受けて自分も仕事をしてきたからです。学恩大きな先生への恩返しとして翻訳しなければという気持ちと、単純なミーハー・ファンとして、彼の仕事と思想を日本で紹介したいという気持ちがありました。1970 年代のMoral Economy of the Peasants、80年代のWeapons of the Weak、90年代のSeeing Like the Stateと、ほぼ10年おきに大きな仕事をされ、彼の本を導きのひとつとして、私もいろいろ考えることができました。

 数年前には、The Art of Not Being Governedを出版し、『ゾミア:脱国家の世界史』というタイトルでみすず書房(2013)から翻訳出版されています。原著の副題はAn Anarchist Viewで、東南アジア大陸部山地における歴史、というよりも歴史のアナキスト流の見方と解釈についてです。

 スコットさんご自身も、自分はある種のアナキストであることを認めています。が、彼のいうアナキズムは、日本語で無政府主義と訳されているのとは大きく違っています。無政府主義ではなくて非政府主義、つまり政府に頼らない、国家と資本に支配されない、それと是々非々で対峙しながら人間の自由・自主・自立・連帯を基盤とする生活と社会を、地域住民やアソシエーションの絆をとおして作ってゆきたいという希求と、その実現を目指した運動です。

 彼によれば、国家は常に監視し、支配し、税金を取り立て、人々の生活と活動に介入しようとします。確かに国家が対応すべき領域があることをスコットさんは認めつつ、しかし過剰な監視と支配の貫徹は、必ずしも人間の潜在能力を十全に発揮させるものでない。国家のレーダー監視をかいくぐって低く飛ぶこと、足腰を強く柔らかくして軽やかに自由に活動できること、そうした個人が自主的に社会を作り上げてゆくことが大事なのだ、と彼は言います。

 そんなスコットさんの仕事から40年近くにわたって刺激と示唆を受け、彼の思想を集大成して一般向けに分かりやすく説いた本を翻訳出版した後に、学会長になるわけです。しかもその責任の重さを自覚しておりますから、とてもシュールな気分であるわけです。

 とはいえ、今回の法人化を国家による監視などと大仰に言わずに、学会が社会的な存在として名乗りを上げる、外から見えるようにすると捉えると、それほど悪いことではない。積極的にやるべき対応と言うこともできると思います。外からというのは、政府や国家だけでなくて、むしろ自身も一員である市民社会とか市井の人、世間の人たちから見える、分かっていだだく、応援していただくという意味です。


 振り返ってみますと、私がしてきたフィールドワークと人類学のスタイルは、1991年に長年の調査地であったピナトゥボ火山が20世紀最大規模で噴火し、友人知人たちが被災したことをきっかけにして大きく変わりました。それ以前はクリフォード・ギアツの解釈人類学やヴィクター・ターナーの象徴人類学に影響を受け、日本では山口昌男さんの本が大好きでした。噴火とほぼ同じ時期には、『文化のなかの政治―フィリピン「二月革命」の物語』(弘文堂、1991)を出版しました。それを前年に脱稿して1991年3月末からサバティカルの滞在をマニラで始めたときには、「フィリピンの大衆文化と政治意識・政治運動」の調査を進める計画でした。文化人類学からカルチュラル・スタディーズへの乱入というか果敢な挑戦をするつもりでした。

 しかし大噴火によって友人知人たちが被災したためにその計画を中断し、アエタ被災者の緊急支援や復興支援のために入った日本のNGO(アジア人権基金)の現地ボランティア・ワーカーとして働き始めた次第です。それから翌年3月末に帰国するまで、人類学の調査をしているという自覚はほとんどありませんでした。特に噴火後の数ヶ月間の雨季のあいだは伝染病が大流行して死者が続出し、現地の状況が最悪でした。調査の前にやるべきことがたくさんありました。

 そうした無我夢中、暗中模索のような状態のまま、毎年の夏、冬、春の休みに訪問を繰り返していると、アエタ被災者の生活も安定し落ち着いてきました。私自身も人心地がついて、自分のやってきたことを振り返り、人類学者として反省と総括ができるようになりました。そして、渦中にあっては自覚せずに続けてきた活動を、後知恵で「応答する人類学」と呼ぶようになりました。キーワードは「応答」です。英訳すると"anthropology of respons-ability"になりますでしょうか、でも日本語のニュアンスとちょっと違う気がしますが。

 ちょっと目には「公共人類学」の問題意識と似ています。が、研究対象として「公共」という領域を考えているわけではありません。基本的な問題意識は、「誰に応答するか、何に応答するか」、人類学にとって大事なことは何か、問題とすべきことは何か、ということになります。その前に、「誰のために、何のために、人類学をするのか」という問いがあります。

 スコットさんの問題意識と、今回の学会法人化、そして「応答」という調査・研究スタイルを三題噺としてあらためて考えてみますと、人類学者は、ヒラメになってはいけない、ということだと思います。まあ、ヒラメは比喩ですけれども、我が身は海の底の砂の上に置きながら、目はしっかり上(だけ?)を見ている。草の根の小さなコミュニティで顔の見える調査をしながら、日本の大学に帰ってきて意識するのはもっぱら学会での議論や動向、お上や国家の動きだけ、ということの比喩です。

 もちろん、制度化された人類学は、大学という組織のなかにあり、大学自体が文科省の意向や示唆・指導の下、また財務省の予算の縛りのなかに置かれています。だから自由に動けるわけではありません。政府の意向を忖度して積極的に動くことが必要ということもあります。「腹が減っては戦はできぬ」と言います。予算がなければ調査研究の活動ができない、という苦境は厳然として存在しています。私自身が京都大学東南アジア研究所の所長をしていたときには、予算の確保と新規プロジェクトの獲得が、国際ネットワークの拡充強化と協同研究の推進とともに二本柱の重要課題としていました。

 なので、文化人類学会としても、上を見て日本全体、世界全体の動きをしっかりと見るということはとても大事だと思います。しかし同時に、上からの指示を受けて迎合するだけというのではなく、時の政府の動きに合わせつつ、長期的な観点から自主的自律的に是々非々の判断をして身を処してゆくことが必要なのだと強く思っています。その際には、社会や世間に対して、また調査地でお世話になった人たちに対する説明・応答責任ということをしっかり自覚しなければならないと思っています。

 最初に申し上げたシュールな気分というのは、そのように引き裂かれてしまっている自己の同一性のなさ、英語で言えばインテグリティーの弱さの自覚と裏腹です。それでも他方では、右往左往する生き方を肯定的に引き受け、まあ、なんとかなるだろうという根拠なき楽観に身を委ねる能天気さも合わせもっています。なので、シュールな気分ではありますが、現実離れした暴走はしませんから、ご安心ください。

 皆さんが大丈夫と思って車の運転を任せたドライバーとしての学会長が、なんだか頼りのない本音を語ってしまいました。ただし、会長は頼りにならなくても、理事総務会のメンバーは情報・広報担当に栗田さんに、総務担当に川田さん、会計担当に石田さん、庶務担当に木村さんに就任していただきました。老年、壮年、青年の力を合わせ、経験と知恵と力を出し合い、法人化という新たな節目を迎える学会をしっかりと運営してゆく所存です。会員の皆様のご協力を得られれば幸いです。

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