財団法人民族学振興会の解散について

(『民族学研究』第64巻第3号より転載)

中根 千枝

 財団法人民族学振興会は、近年のいちじるしい金利引き下げにより、その運営が困難となり、昨年来、検討をつづけ、慎重に審議した結果、平成11年9月27日の理事会・評議員会において解散の決議がなされ、その基本財産を公益信託とし、民族学振興のための基金とすることに決定しました。この決義にもとづき、ただちに文部省へ解散許可願いの手続きをし、10月13日に解散の許可がおり、同20日に解散登記を済ませました。ついで官報への解散公告を掲載、この2ヶ月の期間は12月21日に終ることになります。この間、財団としてこれまで関係のあった各方面の機関、個人に解散通知を出すとともに、11月20日には日本民族学会の理事、評議員をはじめ、とくにお世話になった関係者の方々をお招きし、解散の報告と御礼を述べる会を国際文化会館で催しました。その席で理事長(正確には清算人代表)としての解散に当っての御挨拶をいたしましたので、それにそって以下記させて頂きます。

 昭和9年から今日まで65年の歴史をもつ組織を解散するということは、まことに残念でり、理事長としてその責任を深く痛感する次第です。この時期に解散したということは、低金利のため財団としての運営ができなくなったという直接の理由がありますが、よく考えてみますと、時代の大きな流れの一つの帰結であるということを感じざるをえません。
 この65年の歴史をふりかえってみますと、昭和38年(1963年)頃を境に前期と後期に分れるような気がいたします。前期は我が国の民族学研究の唯一の集団として国内的にもまた対外的にも重要な役割を果した時代です。「民族学会」から「民族学協会」という財団法人になったのは昭和17年(1942)ですが、学者集団としては昭和9年(1934)からずっと継続しております。第1代理事長は東洋史学の碩学白鳥庫吉博士(1865−1942)であり1)、今日の斯学を代表する学術雑誌『民族学研究』の第1巻1号は学会設立の翌年、昭和10年に創刊されております。ここで特筆すべきことは、この学会活動は、学会成立以来、理事であり、後に会長・理事長をつとめられた澁沢敬三氏(1896−1963)の多大な御援助によって支えられてきたことです。
 澁沢会長がお亡くなりになったのが昭和38年で、民族学協会が改組されて民族学振興会となりましたのが、その翌年、昭和39年です。このとき、澁沢先生(私たちは常に親しみをもって先生とおよぴしていました)が昭和12年(1937)に寄附された保谷の土地3000坪を350坪残して売却し、建物の改築にあてた残りの1億円を基金として新らたな財団の体制ができ、今日に到ったわけです。従って、澁沢先生の残された遺産によって財団は基本的に運営されてきたと云えます。因みに、民族学振興会の英文名は Shibusawa Foundation for Ethnological Studies としておりました。
 実は全国的な民族学の学会「日本民族学会」が財団法人から離れて結成されたのも昭和38年でした。これは1950年頃から次第に文化人類学、社会人類学の学科や講義題目が大学にできるようになり、その結果、この頃までに相当数の若い民族学研究者が全国的に出はじめており、その状況を反映したものと云えましょう。また、文部省海外学術調査のための科研費が始まったのも昭和38年です。年々その額も増えて、今日では殆んどの研究者はこれによって海外調査が可能となり、その他にも民間の財団助成も受けられるようになりました。民族学協会や澁沢先生に調査費をお願いしていた私共の頃とは雲泥の差です。
 次第に発展してきた民族学界を反映して、昭和43年(1968)には東京・京都で第8回国際人類学民族学会が開かれ、財団の理事・理事長として長らく活躍された岡正雄氏がその会長をつとめられ、財団は日本人類学会、日本民族学会と共にその開催の任を負いました。
 昭和49年(1974)には長い間民族学者たちが熟望していた民族学博物館が設立されました。実は最初に設立の建議を出したのが昭和28年(1953)で民族学協会の時代です。本格的な運動が始まり、学術会議、文部省に要望書を提出したのが昭和39年(1964)で、それから10年を経て民族学の一大センター「国立民族学博物館」が実現したわけです。同博物館長梅棹忠夫氏の要請にもとづき、振興会は財団法人千里文化財団が発足する昭和58年(1983)まで千里事務局との協力体制をとってきました2)
 以上のような民族学界の発展にともない、本財団の重要性、役割は相対的に低くなったとしいえましょう。財団の事業も下記の如く限られたものとなってきました。澁沢賞の授与3)、民族学振興会研究員の受け入れ、「澁沢研究助成金」4)の交付、「アジア研究出版助成金」5)の交付、『民族学研究』の刊行助成、その他、図書室の整備充実、各種プロジェクトの推進、外国の研究者の招聘に関する助成などがあげられます。近年とくに力を入れたのが「環境と人口」プロジェクトでした。これは平成6年10月に特定公益増進法人の認定をとり、募金活動6)を行い、とくに国外での研究を対象とし内外の研究者によってプロジェクトが展開されました7)。それに加えて日本民族学会会員の当該テーマにかかわる研究の状況を展望するための資料の収集が行われました。しかし、残念なことに不況により募金活動もますます困難となり、平成10年3月をもって終らざるをえませんでした。
 昭和62年に道路拡張計画のために振興会の敷地約40坪を保谷市に売却した約1億円を基本財産にくみ入れたものの、近年の低金利時代となって、従来の事業もできなくなり、経常費にも事欠くまでになりました。よく考えてみますと、前期、後期をとおして財団としての任務は全うできたものとの認識にいたり、ここに解散の決定にいたりました。
 最後に解散に当って振興会と最も近い関係にあった日本民族学会、そして文部省をはじめとする関係者の皆様に今日までの御協力、御好意に対して深く感謝する次第です。また長年本振興会の理事、評議員として無報酬で振興会のために御盡力頂きました皆様、そして薄給に甘んじて事務を担当された職員の方々に、この場をかりて心から御礼申し上げたいと存じます。
 おかげさまで、負債もなく、つつがなく無事解散にいたることができましたことを感謝をもって御報告する次第です。亡き澁沢先生もきっとこの決定に御同意されることと信じます。先生の御令息澁沢雅英様に私がはじめて解散の意向をもらしたとき「それがいいでしょう」とおっしゃって、この決断にいたる勇気をもったことをつけ加えさせて頂きます。これから公益信託となります基金が当財団の歴史ならびに意向を反映して民族学振興のために役立ちますことを心から祈念して私の御挨拶とさせて頂きます。

 以上をもって、学会の皆様への御報告にかえさせて頂きます。


1)歴代理事長在任期間

  1. 白鳥 庫吉 昭和9年11月〜17年3月
  2. 西山 清猪 昭和17年8月〜19年3月
  3. 高田 保馬 昭和19年3月〜20年9月
  4. 澁沢 敬三 昭和20年9月〜24年8月
  5. 岡  正雄 昭和24年8月〜30年2月
  6. 松本 信広 昭和30年2月〜35年3月
  7. 石田英一郎 昭和35年4月〜37年3月
  8. 古野 清人 昭和37年4月〜52年6月
  9. 白鳥 芳郎 昭和52年6月〜61年5月
  10. 中根 千枝 昭和61年6月〜平成11年10月
下記の期間、会長(副会長)がおかれた

  昭和17年8月〜20年9月  会長 新村出  副会長 菊池豊三郎、澁沢敬三
  昭和20年9月〜24年8月  会長 澁沢敬三(理事長兼務)
  昭和26年9月〜38年10月 会長 澁沢敬三

2)昭和59年(1984)は本財団50周年に当り、『財画法人民族学振興会 五十年の歩み − 日本民族学集団略史』を刊行しておりますので、それまでの歴史については同書を参考されたい。

3)澁沢賞は澁沢敬三氏が「民族学・日本民俗学に対する貢献」により朝日賞を受賞され、その賞金を協会に寄付されたので、同氏を記念して始められたものである。

4)澁沢雅英氏が理事長をされているMRA財団の御好意により、平成2年から9年にかけて振興会に寄付を頂き、これによって若い研究者のフィールドワークヘの助成を行った。

5)昭和62年に国際交流基金賞を受賞した中根千枝がその賞金を振興会に寄付し、これによってアジア諸国の民族学研究者に対する出版助成を行った。

6)澁沢敬三氏と縁の深い清水建設、第一勧業銀行、KDDをはじめ、その諸機関、個人から寄付を頂き、また、経団連自然保護基金の事務局より助成金を頂いた。これら諸機関、個人に対して深く感謝する次第である。

7)その一部の成果、フイリッピン、ネパール、ヒマラヤ、内蒙古の研究報告は「文化人類学、ニュースレター」No. 4 , (1997)に掲載。